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トライアンフ

トライアンフの業績

トライアンフは、19世紀の終わりに創業してから、100年以上の歴史を有する。その歴史の中で、幾度となく業績が悪化し、経営不振に陥ってきたことがあった。

最初の危機は、第1次世界大戦後に訪れる。人員不足のため新しい車種の開発が遅れ、新車種を投入する他メーカーとの競争に勝てず業績が低迷することとなったのだ。トライアンフは同時期に、廃業した自動車工場をコンベントリーに購入し、乗用車の生産も開始している。この低迷期は、2万台を販売することとなる、ベーシックなモデルPを1923年に発売するまで続いた。

次の低迷期は、1929年の世界恐慌時となる。このときは1932年に、まず自転車部門を売却し、ヴァル・ペイジを新たな主任技師に迎えて、新車種を発表し再建を図ろうとするも、自動車部門の不振が財政を圧迫する。このため、1936年、ついに二輪部門がジャック・サングスタに売却され、自動車部門と二輪部門は、完全に分離することとなる。
このジャック・サングスタは、この当時、トライアンフと同じく世界恐慌で倒産寸前だったアリエル社を見事に再生させた人物で、トライアンフの再建も彼に託されることとなる。新たにスタートしたトライアンフエンジニアリング社に、サングスタはアリエル社から作業管理者としてエドワード・ターナーを、設計者としてバート・ホプウッドを呼ぶ。こうして1937年に、単気筒モデルタイガーと、498ccスピードツイン(T100)を発表し、大好評を得た。

やがて第二次世界大戦が始まり、イギリスのコンベントリーはドイツ軍により空襲を受け、トライアンフの工場も壊滅的な打撃を受ける。しかし、政府の援助によって近隣のワーウィックに仮工場を設けて生産を再開し、一方で、新たな生産拠点としてメリデンに新工場を建設し、1942年から操業を開始する。

1970年代に、新たな危機が訪れる。小型車の生産が主力であった日本メーカーの急激な成長によって、トライアンフの販売も押されることとなったのだ。トライアンフは負債を抱え、ノートン・ビリヤースと合併し、ノートン・ビリヤース・トライアンフとして再スタートすることとなった。メリデン工場では、共同組合が成立され、ボンネビルの製造は続行されたが、1983年についに閉鎖されることとなった。
だがこの危機も、実業家のジョン・ブルーアがトライアンフの商標権や生産権を購入し、新たなトライアンフを立ち上げたことによって救われることとなる。1990年にはヒンクレー工場が稼動を開始し、現在のトライアンフへとつながる。

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